日米の教育は本当に違うなあと実感したセミナーでしたので、その中でも特に強く思ったことを、メモ程度に。
詳細はこちらから。
Dr. Tony Carbo
http://www.sis.pitt.edu/~tcarbo/
期待していた授業を超越
分野横断の情報政策のセミナーと聞いて想定していたのは、一言で言えば、広く浅いもの。ところがこのセミナー、広く、そして深いものでした。著作権、図書館の自由、検閲問題など仕事に関わってくる主題は、これまで断片的に理解しようとしてきて勉強してきたつもりですが、数年かけてもいまいちどう考えていいのかわからなかったものが、3ヶ月分のシラバスには、それらがセミナーのほんの小さな構成要素になっていました。そんなシラバスを見て、最初は「これは無理だとおもうんだけど、どう料理してくれるのかね?」と疑うばかりでした。カーボ博士の導きは、本当の政策はValueに根付くものであるという明確な意識の確認に始まり、米国憲法のValueの理解とそこに示された情報政策のルーツを解釈し、そこから政府情報、プライバシー、情報の所有権、表現の自由と検閲、児童保護の領域に進出し、さらにその中の具体的な事項に関わる政策理解の枝葉へと広げていく、というものでした。毎週3時間みっちり行われるディスカッションの中で、今まで見えなかった構造がどんどん解明されていき、思わず目を見開いてしまうことがなんどもありました。
英語がもう少しできれば、、、というのが大きな悲しみ。
修士と博士
それにしても博士と修士は大違いです。来る前は、こちらの修士はもう少しレベルが高いものだと思っていたのですが、要求レベルも意外と日本の学部生レベル程度で単位は取れる気がします。ただ、単位が取れるというのと、深く理解するのとでは話は別物で、単位をとっているだけでは就職口も博士への道も見つからないという現実は、日本と一緒です。一方博士課程の人はレベルがすごいです。例えば博士1年目の友人エリザベスは、最初、この人大丈夫かなというくらいいつもピントがはずれていたのですが、記憶力に非常に長けていて数年前にあった人についても経歴から研究分野からすべて解説できるという特殊能力をもっていますし、この人だけでなく、さすがみなそれぞれ評価されてこの大学院に来たのだということがよくわかります。セミナーでも、学期が終わる頃には博士1年組みたちはピントをぴたっとあわせられる立派な論客に急成長していました。
成長しなかったのは私くらい、という悲しい現実。
知識の置き場所
受験戦争の中で育ってきた私は、知識は教科書や参考書やノートのどこに書いてあったかで思い出すタイプで、情報はどこかに置き場所が決まらないと短期記憶からすぐに抜け落ちてしまうタイプだと、自分を分析しています。そんな私と比較したとき、彼らの学び方は明らかに違うもののように思いました。言語表現する能力の育成を重視する教育の中で、物事の属性を多面的に捉えていて、それらをどんどんつないでいくような、そんな思考回路をしているようにうつりました。「Miscellaneous」の中にも米国の教育の変化についての言及がありますが、博士課程の学生のディスカッションスキルの成長を見ていると、まさにそれを実感させられるものがありました。圧巻だったのは、9週目から5週続いた学生リードによるディスカッションでした。3,4人のグループが、特定領域の情報政策について3時間にわたってディスカッションをリードしていくのですが、リードする学生は領域に関する多くのノードの存在を把握し、それをグループの中で共有し、さらに他の学生の中にあるノードとの結びつきを模索しながら、見事に3時間盛り上げ続けていました(という風にわたしは理解しました)。
どうしたらそうなれるのか盗もうとしましたが、一朝一夕ではむりでした、とざんげです。
博士から全員にメールで、"Thank you again for taking this course and for giving me the privilege of teaching you.”と挨拶がはいっていました。すばらしい人間性です。カーボ博士がもうじき退任されるのは、寂しいですが、学べたことを幸せに思います。非常に疲れましたが。。
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